【訃報】宇宙人探しのパイオニア、フランク・ドレイクさん

このエントリーをはてなブックマークに追加
9月2日、地球外知的生命体探査の先駆者で、人類と交信可能な地球外文明の数を見積もるドレイク方程式を提唱したフランク・ドレイクさんが老衰のため死去した。享年92。

【2022年9月8日 UC Santa CruzSETI Insititute

1930年に米・イリノイ州シカゴに生まれたフランク・ドレイク(Frank Donald Drake)さんは、早くから化学と電子工学に興味を示していた。1952年、米・コーネル大学で基礎工学の学士課程と海軍の予備役将校訓練課程を修了すると、重巡洋艦「アルバニー号」の電子機器担当技官を3年間務めている。その後、米・ハーバード大学の大学院で電波天文学を専攻し、博士号を取得した。

ドレイク博士
ドレイク博士(提供:SETI Institute)

地球外知的生命体探査の実験「オズマ計画」

その後、米・ウエストバージニア州グリーンバンクに設立されたばかりの国立電波天文台に職を得たドレイクさんは、口径26mの電波望遠鏡を使った研究プログラムとして、長年の関心事だったマイクロ波による地球外生命体の探索を提案した。

この計画では宇宙人がいる可能性のある星として、11.9光年の距離にあるくじら座τ星と10.5光年のエリダヌス座ε星を選び、約6週間にわたって交互に望遠鏡を向け、電波による信号を探した。史上初の地球外知的生命体探査(SETI)とされるこの試みに、ドレイクさんは児童文学作品「オズの魔法使い」に登場する王女にちなんで「オズマ計画」と名付けた。オズマの国のように、素敵で遠い世界との通信を試みたからだ。

ドレイク方程式:N = R × fp × ne × fl × fi × fc × L

オズマ計画では地球外からの電波を検出できなかったものの、ドレイクさんの試みは世界中の注目を集めた。その結果、全米科学アカデミーの働きかけで、十数人の著名な科学者や技術者が1961年に集まり、SETIについて議論することになった。この会議でドレイクさんは、7つの項から成る簡単な方程式を提案した。「ドレイク方程式」と呼ばれるこの式は、人類と交信可能な地球外文明の数を推定するもので、アインシュタインの「E=mc2」に次いで科学界で2番目に有名な方程式とも言われる。

太陽系外に送られた最初の物理的メッセージ

さらに1972年、ドレイクさんは天文学者でありSF作家などとして知られるカール・セーガンさん、セーガンさんの妻リンダ・サルツマン・セーガンさんと共同で、NASAの惑星探査機「パイオニア」10号と11号に搭載された金属板をデザインした。金属板には男性と女性のイラスト、探査機の起源を地球までたどるための宇宙地図が描かれていて、太陽系外に送られた最初の物理的なメッセージとなった。

恒星間空間へ向けた最初の通信「アレシボ・メッセージ」

1974年、ドレイクさんは米・コーネル大学の終身雇用教員の役職を得るとともに、プエルトリコのアレシボ天文台を管理する国立天文電離層センターの所長に就任した。同天文台の巨大アンテナが改装された際の記念式典で、ドレイクさんは約2万2000光年の距離にある球状星団M13に向けて電波を発信した。いわゆる「アレシボ・メッセージ」だ。史上初めて恒星間空間へ向けられたそのメッセージでは、DNAの二重らせん構造、人体の大きさ、太陽系内の地球の位置などが絵文字で表されている。

さらに1977年には、探査機「ボイジャー」のゴールデンレコードのデザインにも携わった。ボイジャー1号と2号に搭載された星間空間メッセージには、地球からの景色や音、挨拶などが精選されて詰め込まれている。

生涯持ち続けた地球外生命の探査への強い関心

1984年、米・カリフォルニア大学サンタクルーズ校の自然科学部の学部長に就任。同年に設立されたSETI研究所の所長にも就任した。1996年に教職を退いた後もドレイクさんは地球外生命の探査への関心を持ち続け、探査の成功確率を最適化する電波望遠鏡の設計を研究し、米・リック天文台のプロジェクトに参加して地球外知的生命体の光信号を探した。2010年に80歳でSETI研究所を公式に引退する際も、「地球外知的生命体探査からは、決して引退するつもりはない(I'm never going to retire from SETI)」と話していたという。

〈参照〉

〈関連リンク〉