2001年4月号 本誌連動企画 |
ミール、15年の軌跡 |
「ミール」は、アメリカと旧ソ連の熾烈な宇宙開発競争の最中、旧ソ連が打ち上げた人類初の恒久的な宇宙ステーションだ。その名前の意味は「平和」「世界」である。 コア・モジュールが1986年2月20日に打ち上げられ、以後数度にわたる拡張を経て、最終的には1996年4月に「プリローダ」モジュールのドッキングにより完成を迎えた。最大長33メートル、質量約140トン。人類が宇宙に送り出した中で、過去最大の宇宙構造物である。 「ミール」の目的は、各種の科学実験や観測、無重量が人体へ及ぼす影響の調査などである。コア・モジュールの打ち上げから約1か月後の1986年3月15日に2人の宇宙飛行士が初めて滞在。そして、1989年9月7日以降の約10年間は、常に有人の状態で飛行を続けてきた。 「ミール」には、1990年12月には、初の日本人宇宙飛行士・秋山豊寛氏が搭乗するなど、ロシア人だけでなく各国の宇宙飛行士が乗り組んだ。とくに1991年のソビエト連邦の崩壊以後、1996年からはアメリカのスペースシャトルとのドッキング・ミッションがはじまるなど、国際協力の舞台として宇宙開発の歴史に輝かしい功績を残した。
だが、「ミール」のコア・モジュールの設計寿命は5年。それを大きく超え、老朽化が進んだ後半生は、トラブルの連続でもあった。とくに1997年には、2月には船内で火災が発生、1997年6月にはプログレスM-34が手動ドッキングテスト中に、スペクトル・モジュールに衝突するなど、2つの大きな事故も発生した。しかし、幸いなことに死傷者は出ず、重大な損傷も生じなかったため、運用が継続された。 そして、1998年終わりになって、「ミール」は大きな転機を迎えた。1998年11月、世界十数か国が参加する「国際宇宙ステーション (ISS)」のコア・モジュール「ザーリャ」が打ち上げられたのである。「ザーリャ」は、ロシアがミールでの経験を活かし、製造・打ち上げを行なった。これにより、国際的な注目の焦点が「ミール」から「ISS」に移ったのである。 ロシアには「ISS」計画と「ミール」の運用を並行して行なうだけの資金は無く、1999年8月、ついにミールは約10年ぶりに無人状態となった。そのまま2000年初めに廃棄するという案も検討されたが、ロシア国内では旧ソ連から続くロシアの宇宙開発の栄光の象徴である「ミール」の存続を求める声が高く、「ミール」は無人状態のまま飛行を続けた。 2000年2月、「ミール」に新たな光が差し込んだ。オランダに本社を置く国際ベンチャー企業ミールコープ社がミールをリースし運用資金を提供することでロシアと合意したのである。2000年4月にはミールコープ社の資金提供により2名のロシア人宇宙飛行士が「ミール」を訪れ、ミールの整備作業を行なった。初の100%民間出資の有人宇宙飛行であった。2名は同年6月に帰還した。 ミールコープ社では「ミール」への宇宙観光旅行などの事業により資金を得る計画だった。そして、アメリカの実業家デニス・ティトー氏や、「ミール」旅行を景品としたテレビ番組などの顧客を得たものの、結局「ミール」の維持のための充分な資金を確保するめどはまったく立たなかった。(ティトー氏は現在、国際宇宙ステーションへの訪問を計画中) 2000年11月、ロシア政府はついにミールの廃棄を正式に決定した。老朽化と財政難がその理由である。 2001年2月20日にコア・モジュールの打ち上げから満15年を迎えたロシアの星「ミール」だが、日本時間2001年3月23日午後3時ごろ、南太平洋に指令落下させられ、その歴史を閉じた。 ロシアは落下計画を順調に進めて成功させ、改めて宇宙技術の高さを示したが、宇宙技術の象徴であるミールを失ったことにより、ロシア国民や、ミールに滞在した経験を持つ宇宙飛行士たちの間には喪失感も広がっている。 ※ミールの歴史に関するより詳細な情報や多数の高精細画像が『星ナビ』2001年4月号本誌に掲載されていますので、ぜひご参照下さい。 |
画像提供=NASA
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