第40回 最先端ということ
(星ナビ2008年5月号に掲載)
科学者と技術者はまったく違う
ある人(科学者)との話の中で、最先端という話題になった。
たとえば今取り組んでいるプロジェクトのひとつ、メガスターZEROは(革新的要素もあるけれど)、性能的には最先端を目指したものでなく、今までのメガスターで達成した性能を、より安価に、より扱いやすく提供するための商品であり、先端というより普及に近い。で、なぜあなたが(最先端でない)そんなことをやっているのだ? と聞かれたわけである。
科学者は最先端を歩む使命がある。同じ事柄について発見は常に1回だけである。自然法則つまり神との対話の中で発見、解明を使命とする。科学者にとっては、最先端にいることが必要最低条件なのだ。それがどんなに狭い分野であってもだ。先端にいなければ科学者とは言えない。
さて自分はどうだろう。僕は科学者ではない。技術者でありクリエイターである。モノを生み出す、または表現する仕事である。技術者は科学技術に多く依存しているので世間から見ると科学者と混同されやすい。だがその立ち位置も課せられた目的もまったく違う。正反対といえるかもしれない。
技術者にとって先端技術は道具のひとつである。技術者も、先端的な製品や作品を生み出すことが“望ましい”ことに違いない。望ましい、と書いたのは、それも必ずしも必須ではないからだ。付加価値を生み出すのに、科学の最先端の知徳や先端技術は強力な道具となる。しかし、先端であることが大切なのではない。技術者の使命はあくまで、世の中に有用な製品、サービス、作品を作り出すことであって、それが有用かどうかは社会、使う人との接点で決まる。性能、機能はもちろんだが、価格、扱いやすさ、信頼性などの側面が重視されるのは、使う側の立場に立ってみれば容易に理解できるだろう。その目的を最適に達成するために、必要に応じて先端技術も、 “枯れた”成熟技術も使う。技術者が、科学者に感化されて先端を盲目的に追い求めてしまうと、単なる独りよがりになってしまう。つまり科学者の使命は神(自然法則)との対話なのに対して技術者のそれは社会、人との対話なのである。これは決定的な違いである。
さてメガスターはどうだろうか。先端技術もいくつか使っているが、基本原理は、1923年にカールツァイスが発明した光学式プラネタリウムと変わらない。けれども、在来のプラネタリウムにない星空の描写能力と可搬性があって社会のニーズに合致した。そう考えている。しかし一方で、供給がごくわずかで、メガスターを見たい、設置したい多くの人の需要に応えられていない。この課題解決が技術者大平に求められてきた。
でも、そういいつつ、僕も最先端を歩んでいたい気持ちは変わらない。社会のニーズに応えつつ、最先端の道を開拓していく。その難しいバランスを取っていくことがこれから僕にとっての課題になりそうだ。