(前編からの続き)
デンデラの黄道帯:星座の中で文明は混ざり合う
ルーブル美術館で一番「天文っぽい」展示品は、意外にもエジプト美術のコーナーにある。近代、ナポレオンのエジプト侵攻を初めとして、良きにつけ悪しきにつけエジプトと関わることが多かったフランスには、数多くの文化財が渡っており、ルーブル美術館のエジプトコーナーはじっくり見ればそれだけで丸一日潰れてしまうほどの規模だ。
その中でも「デンデラの黄道帯」は一、二を争うほどの価値があると言われる。これは元々エジプト中部、ルクソールの北にあるデンデラ神殿の一室の天井を飾っていたレリーフで、天の北極を中心とした星座絵などが直径2mほどの円の中に刻まれている。肉眼で見える5つの惑星(水星・金星・火星・木星・土星)も配置されていて、その位置から、この天井図は紀元前50年の星空を描いたものだと推測される。ちょうどプトレマイオス朝最後のファラオとなるクレオパトラの治世だ。
プトレマイオス朝はギリシア系の血を引く王朝だが、この天井画からもエジプト独自の要素とギリシアのような要素の両方を容易に見つけることができる。まず全体(写真7)を見てみると、4柱の女神が四方を支え、その間にハヤブサの顔をした神が立っているのはいかにもエジプト的だ。天の北極付近に棒状の物が見えるが、実はこれはちぎり取られた牛の脚。北斗七星のエジプト版である。
一方、よく探せば「デンデラの黄道帯」という名に違わず、黄道十二星座が描かれているのがわかる(写真8)。半人半馬のいて座や半獣半魚のやぎ座も、ギリシア神話でおなじみの姿どおりだ。ただしこれを安直に「ギリシアの星座が伝わった」という訳にはいかない。前回見たとおり、星座の原形は多くがメソポタミアで誕生している。この天井画はギリシア、メソポタミア、エジプトなどの文化が混ざり合ったヘレニズムの産物なのだ
イスラム風天球儀
メソポタミアで誕生した星座はギリシアで神話と結びつきつつ発展し、最終的には50個弱に落ち着いた。2世紀にエジプトのアレクサンドリアで活躍した学者プトレマイオスは、天文学書『アルマゲスト』の中で48個の星座とその恒星の一覧をまとめており、私たちが慣れ親しんでいる主要な星座はこの時点でほぼ出そろっている。これらの星座が古代から近代へと伝わる過程で、イスラム文化圏の天文学者たちが果たした役割は大きい。
それを物語るのが、ルーブル美術館が2012年に新設したイスラム美術コーナーの中にある天球儀(写真10、11)である。筆者が確認した限りでは2つの天球儀が展示されているが、いずれも真鍮の球に星座絵を刻み、『アルマゲスト』で列挙されたのと同じ位置に銀製の星を埋め込んだものだ。両者とも十分観賞に堪えるほど美しいだけでなく、ステラナビゲータのように星座や恒星の位置を知るという実用にも堪えるよう作られていることがうかがえる。
メソポタミアの境界石では星座のシンボルはバラバラに配置されていたし、デンデラの黄道帯は星座同士の位置関係は合っていても個々の星座は必ずしも現実の恒星の配置に沿ってない(写真8のてんびん座とみずがめ座あたりがわかりやすい)。ずっと後の時代であることを差し引いても、イスラム文化圏の天文学者たちが星座と恒星の配置を二次元(星座図)と三次元(天球儀)の両方で忠実に再現しようとした結果が数多く残されているのは特筆すべきことだ。
9世紀には『アルマゲスト』はアラビア語に訳されており(そもそも現在伝わるこの書名自体が「最も偉大な」を意味する「アル・マジェスティー」というアラビア語がなまったものだ)、それまでアラビア等に存在した独自の星座体系は、一部の例外(写真10参照)を除いてプトレマイオスの48星座で上書きされている。逆に、個々の恒星にはアラビア語での呼称が定着したケースが多い。
はくちょう座の「しっぽ(ダナブ)」→デネブ、オリオン座の「あし(リジュル)」→リゲル、みなみのうお座の「魚の口(ファム・アル・フート)」→フォーマルハウトといったアラビア語由来の恒星名の数々も、イスラム天文学者たちの位置への「こだわり」を物語っているように私は感じる。
そして『天文学者』へ
12世紀ごろになると、『アルマゲスト』はラテン語に翻訳され、今度はイスラム文化圏からヨーロッパへとプトレマイオスの星座が渡った。そして、天球儀を初めとした天文器具の数々もまたヨーロッパに伝わった。ルーブル美術館で近代絵画のエリアを適当に散策すれば、16世紀や17世紀の学者のアトリエを描いた絵画をいくつか目にすることができるが、そこには必ずといっていいほど天球儀が描かれている。
その中で一番有名なのはヤン・フェルメール(1632-1675年)の『天文学者』(写真12、13)だろう。説明も不要に思われるほどのこの名作は、星座を中心につないできたルーブル美術館の宇宙ツアーを締めくくるのにふさわしい。
『天文学者』は2015年に東京と京都で開催された「ルーブル美術館展」の目玉として初めて日本に渡っている。そこで実際に目にされた方も多いのではないだろうか。なお、筆者は日本での展示1週間前に、何も知らずこの絵を目当てにルーブル美術館に行こうとしたところ、すでに展示室から撤去されていた。よりによって渡った先が日本だと知ったときの悲しみは忘れられない。
そんなわけでようやく対面がかなったのが2016年。本当は格好付けて「ルーブル美術館の中で数千年の星座の歴史を体感し、最後にこの絵を見るのも乙な物だ」と言ってみたかったのだが、いざ「宇宙コース」の見学を実行してみると、現実に待たされた1年間の方が長く感じられてしまい、スケールが大きいのか小さいのかよくわからないツアーとなってしまった。
ルーブル美術館は館内のみならず、建物の「外」にすら天文に関係する美術品が存在する(写真14)。ツアーを終えて帰る前に、探してみるのも一興だ。入る前に建物を見ても構わないのだが、地上の正面からよりも地下口から入場した方が確実に待ち時間が少ないのは覚えておいて損はない。