夕空に雲間から見えたマクノート彗星を見て思わず「なんじゃこりゃぁ。すげぇすげぇ」と叫んでいる自分がいた。それは2007年1月18日のことで、仲間から撮影地と天候等を問い合わせる電話に応えている最中のことだった。(言葉が大変悪いのですが、一生で数回しか体験できない驚きを表現していると思って下さい)その日上空は晴天だったが、肝心の彗星がいる付近の低空だけは雲がかかっていた。
「前評判が高い彗星は大化けしなくなるので、静かに見守りましょう」という暗黙の了解があるそうだ。確かに期待されながら空振りに終った彗星は数多い。故に私は今回も静かにしているつもりだった。しかし北半球で撮影され始めた画像を見るや否や「こいつはひょっとして・・・」と事態が豹変しているのを察知し、近日点通過後の南半球ではどのように見えるのか予習をすぐに開始した。
次にキャッチした情報は「マイナス2等星まで明るくなる」だった。その時の喜びは相当なものだったが、「太陽に近すぎて話にならない」「撮影が出来る頃には既に1等級ではないか」「今回も普通の彗星に終ってしまう」「北半球の皆様の機材が優秀で画像が素晴らしいだけだ」といった言葉がよぎり、私はどこか冷静で、むしろモチベーションは下降気味になった。しかし、近日点通過後は我々南半球が主戦場となることはわかっていたので、とにかく普通に撮影すればいいんだとカメラレンズのクリーニングだけは済ませた。
再び大きなニュースが飛び込んできた。内容は「昼間に見えている」だった。早速太陽を我家の屋根で隠し、すぐそばにいる彗星核を双眼鏡で確認して、驚いた。白い彗星核と立派な尾が見えている。もっと驚いたのは、肉眼で尾まで見えた事だ。ニュージーランドの青い空に映える白い彗星を見たのは、近日点通過翌日の2007年1月14日のことだった。調べてみるとこの日はマイナス5等級に達していたらしく、「これなら数日経ってもマイナス2等級だ」と一気に形勢が逆転していくのを感じていた。
しかし、しかしである。毎日昼間は晴天なのに、日没時に雲が広がる天候が続き、撮影は雲間の彗星核を狙うことしかできないでいた。しかも翌日の15日も16日もずっと曇天であった。そんななか、目を疑う画像を見てしまった。それは彗星発見者であるマクノートさんによるもので、天に向かって誰かが放水をしたかのような尾が写っていた。「ウエスト彗星なんて目じゃない、尾は長さが60度以上、幅も40度以上あるぞ、しかも放物線を描いている・・・これは凄い」と思った。この時ほどオーストラリアが羨ましいと思ったことはない。この時期、オーストラリアのニューサウスウェールズ州ではエルニーニョの影響で、全く雨が降らない日が続いており、世界の小麦が危機を迎えていると騒がれるほどだった。小麦の危機には申し訳ないが、それにしても日没時に晴天が続いていることが羨ましかった。
ウエスト彗星、それは私がまだ小さな子供の頃にやってきた、とてつもなく大きな尾をたなびかせた彗星だ。「こんな尾を持った彗星を生きている間に撮れるか?」とずっと思っていた。私の思いをよそに1月19日は日中の天気も悪くなり、20日になっても天気は回復しなかった。私は仕方なく遠征を考えるようになっていた。全ては厄年の祟り(私は昭和39年生まれなので、この2月3日までは厄年が続いていた)だと思いながらも、私は気象衛星の連続画像とにらめっこを開始した。
その後、今まで見た事もない彗星の姿が南半球各地で撮影されるようになった。画像を見た私は、自分がかなり出遅れた事にいてもたってもいられなり、一気に雲間が切れるであろうポイントに向かって車の運転を開始した。1月21日の午前2時過ぎの事だった。通常3時間ほどかかる所まで、車を飛ばし2時間強で到着した。ところがそこは霧雨の真っ只中。この悪天候も最後に私に課せられた宿命だったのかも知れない。結局450キロを走ったが、彗星核はおろか、尾の一部さえも見ることは叶わなかった。この2日間に撮影が出来なかった事は今でも悔やまれてならない。しかし、天候だけはどうしようもない。
やっと彗星のいる低空に晴れ間が広がったのは、近日点を通過した1月13日から10日後の1月23日早朝だった。丘の向こうに見える彗星の尾がまるで魚の背びれのように見えた。この尾がたなびく様子には、シンクロニック・バンドという格好いい名前がある。夜明けまで撮影を続けたこの日、私の撮影根性に火が付いた。遅れを取り戻すために、サイディングスプリング天文台のお二人に負けじと、ガイド撮影を開始した。
マクノートさんが120秒間の追尾で撮影された写真が目標だった。彼がISO640で120秒なら、ここクィーンズタウンはもっと空が暗いので、「ISO800で300秒や、どうやまいったか!」と気合を入れて撮ってみると、それはそれは自分が撮ったとは思えない画像が液晶モニターに浮かんでいた。それを見た私は、思わず山の上でガッツポーズを決めた。これはイケル!800で300秒、F2.8が基本形となった瞬間であった。しかし、続いてノイズリダクションをかけないと見られない画像のオンパレード。仕方なく300秒のノイズリダクション待ちに毎回突入した。その間がもったいないので、オーロラ撮影専用となっていた銀塩カメラにエクタのE100を装填した。その画像は、2倍増感現像され、今スキャニングを待っている。
そして、とうとう運命の日がやってきた。その日は日中から天気も悪く、普通なら早めに諦めて寝床に直行するところだ。が、気象(勝手に)予報士である私は、朝方に雲が切れる可能性を気象衛星の連続写真から見出していた。1月29日の夜はそうやって更けていった。いよいよ予想通り30日になった午前2時頃から雲が切れ始めた。移動時間と極軸を合わせる時間を含めると、午前4時半過ぎの薄明開始までは、たったの90分しかないと分かってはいたが、急遽周辺で最も高い山の上に出撃を決定した。この決断が功を奏し、2007年1月30日私は午前3時過ぎから出現したオーロラSouthern Lightsとの彗星とのランデブーを撮影する事ができた。これがその時の写真だ。
その後は天候も例年並に戻り、何かに取り憑かれたかの様な怒涛の撮影の日々が始まっていったのだった。
次回は、私が日本を脱出していった経緯などを書いてみたいと思います。