私が立ち上げを任されたのは、アトムの横浜店でした。千葉の自宅からは片道約2時間半という通勤時間でしたが、若さもあって全く苦にはなりませんでした。開店は1986年12月で、まだバブル景気が起こる前でしたから、あまり売れない時期が続きました。何か売り上げに貢献できることがないかと模索したところ、雑誌広告の制作を担当することになりました。
当時、アトムは天文雑誌に毎月10ページ以上の広告を出していましたが、お世辞にも売れる広告とはいえず、生来細かい作業が大好きな私は、「俺に任せろ」とばかり、広告制作にのめりこみました。この仕事は実に面白く、広告を作った翌月には雑誌に掲載され、すぐに注文が来るという反応が嬉しかったのです。今では考えられませんが、毎日現金書留が全国から山のように届き、ピーク時には1日に50通以上の書留が届き、その売上だけで500万円を超えたこともあります。その頃には、バブル景気の追い風もあり、店頭でも通販でも高橋の50万円〜100万円もする望遠鏡が飛ぶように売れました。そして1989年には望遠鏡の販売店としては驚異的な年間10億という売上を上げるほどに成長したのです。
当然、仕事は非常に忙しく、連日22時ごろまでの残業、休みも週1回あるかないか、週末には講習会や観望会やイベントがあり、店長として売上ノルマの達成、メーカーさんとの交渉や在庫管理などの諸業務もありますので、とにかく大変でしたが、楽しい日々でした。 そんな忙しい中でも、趣味の天体写真も絶好調で、帰宅後、月の写真を中心に天体写真を撮りまくり、休みは現像や引き伸ばしに明け暮れました。そして社長の後押しもあり、念願の天体写真の本「天体写真マニュアル(地人書館刊)」を共著で出すことが出来ました。さらには、天文雑誌にも連載記事を持たせていただけるなど、今考えるとアトム時代の実に恵まれた環境に感謝しなくてはいけませんね。
それにしても、アトムは「人材の宝庫」というか「人材の輩出センター」といっても過言ではないほど優秀な店員が多かったのも特長でした。現誠報社で直焦点のスペシャリスト遠藤さん、現アイベル(トミーにも在籍)で販売のプロ松本さん、現柏プラネタリウム研究会でプラネ解説のプロ喜多さん、現スターベース東京店で誠実な接客が評判の池之上さん、現大平技研であのホームスターの生みの親の大平さん(私がアトム東京店店長時代にアルバイトしていた)、その後も現スコープライフ(トミーにも在籍)で工作の達人・遊馬さん、現ニュートンで行動派の徳光さん、現テレトで中古のプロ市川さん、他にも今でも業界で大活躍中の方が大勢いらっしゃいます。これだけの人材が短期間に揃ったというのも当時のアトムに非常に勢いがあったという証拠だと思います。
さて、アトムには実に様々なお客様がお見えになりましたが、その中でもひときわ異彩を放っていたのが、ファミスコの生みの親であるトミーの宮崎さんでした。宮崎さんは、トミーでおもちゃの開発に長年携われた方で、その前はパイロット万年筆にいたそうです。トミーでは、あのトミカタワーやミックマック(望遠鏡・顕微鏡・潜望鏡になる分解式のおもちゃ=ファミスコやボーグの原型)などを開発し社内でも有能な開発マンとして活躍されていました。個人的には、望遠鏡やカメラが趣味で、長年望遠鏡の企画を温めており、ハレー彗星の接近のときに満を持してあのファミスコを開発、大ヒットに結びつけたのです。ただ、悲しいかな、しょせんはおもちゃ、ブームが去ると前回述べた通り、在庫処分の憂き目にあったというわけです。すでにファミスコ60EDの開発企画もあったそうで、生産打ち切りにさすがの宮崎さんもしょげていたそうです。そこで、宮崎さんは、ブームに左右されない、本格的な望遠鏡を開発したいと考えるようになったのですが、その頃、たまたま社内でベンチャー事業の募集があったという幸運が重なり、ハレー彗星がかなたに去った1990年、宮崎さん得意の大風呂敷が功を奏したのか、ボーグの企画はあっさりと承認され、予算もそれなりについて、事業化のスタートを切ったというわけです。
このころ、アトムでは労働条件等を巡って、社長と社員が衝突を繰り返していました。会社があまりにも儲かりすぎたため、かえって社内がギクシャクしてしまい、一時は社長の跡取りにされそうになった私が先頭になって改善を要求しましたが、まとまらず、1991年の新年早々に社員全員が退職するという残念な結末になりました。その後、アトムは社員を入れ替えて再スタートするのですが、バブル崩壊もあり、一時の勢いはなく、その後倒産してしまいました。今考えると、自分を育ててくれたアトムへの感謝が足りなかったという反省と、その後にアトムに入った店員の方々や業界の関係者に多大な迷惑をかけてしまったという反省があります。若気の至りとはいえ、関係者の皆様にはこの場をお借りしてお詫び申し上げます。あのまま、アトムに居続けていたら、業界地図も今とは変わっていたかもしれませんし、ボーグもなかったかもしれません。不思議な因果を感じます。ただ、アトム時代の常連のお客様は、いまだにボーグユーザーとしてお付き合いいただいている方が多く、感謝してもしきれないほどありがたく思っています。
さて、私も次の当てがあってアトムを辞めたわけではなかったのですが、ありがたいことに業界数社から声をかけていただきました。その中に宮崎さんから強いお誘いがあり、「新しい望遠鏡を市場に送り出す」というごく限られた人しか経験できない貴重なチャンスを生かさない手はないと、その後の苦労もそのときは知る由もなく、トミーからのありがたいお誘いに応じたのでした。時に1991年1月末28歳のことでした。その後のボーグ事業の立ち上げの苦労(今度は宮崎さんと衝突します)については、次回に書きたいと思います。(続く)