さて、ここに来るまでもいろいろとありましたが、1991年2月1日に晴れて(株)トミーに入社し、ついにボーグ事業に携わることになりました。今まで経験してきたことが全て役に立つと喜んだわけですが、現実には、なかなかそう簡単にはいきませんでした。今回はそのあたりの苦労話をしたいと思います。
私が入社する1991年2月までは、事実上宮崎さんが一人で、ボーグの立ち上げを担っていました。あれだけのものを一から立ち上げるのはさぞ大変だったと思います。何でもそうですが、何もないところから、新しいものを生み出すということは、ものすごいエネルギーが必要です。それだけでも尊敬に値します。私は発売10ヶ月前の入社でしたので、主に、説明書・カタログ・雑誌広告等の広告宣伝と営業を担当しました。営業はビクセン時代に、広告はアトム時代に経験していたことが役に立ちました。カタログ作りも楽しくて自分に合っていましたが、説明書作りは初めての経験でしたので、戸惑いました。特にボーグの楽しみ方を解説する「楽しみ方編」の制作は大変でした。今までの経験と知識と人脈を総動員して、半年以上もかけて何とか完成しました。おかげ様でこの「楽しみ方編」は改版を重ねながら今でもセット品に付属させており、有料でもいいから分けて欲しいとオファーが来るほど好評です。
さて、ボーグの発売当初のコンセプトは非常に明快で「軽い、安い、使いやすい」望遠鏡、ということにつきます。まず、軽さについては、鏡筒と接眼部をプラスチック製にするという英断をしました。価格については、型を多用して大きな投資をし初年度に型代を償却してしまい、2年目からは型代の回収を考えずに販売が出来るという当時のトミーのやり方を最大限に生かしました。そして最後の「使いやすい」という点には最大のウエイトをおきました。それまでの天体望遠鏡というと、あまりにも保守的で、工夫がないというか、遊びがないというか面白みに欠けるというイメージがあったため、ボーグでは「ユニークで使いやすい」というところを重視したのです。それが、業界初の「対物レンズ交換式」「ターレット接眼部内蔵」「大型ファインダー内蔵」という他社にはない特長につながったわけです。ただ、あまりにも機能を欲張ってしまったため、現実の生産は問題の連続となってしまいました。
問題のひとつは、ボーグをどこでどういうふうに生産するかということです。設計は宮崎さんがファミスコの経験から、鏡筒もレンズも見よう見真似で、何とか設計できたのですが、生産に関しては、全くの素人でしたので、ボーグに合った業者さんをみつけるのが大変だったようです。 まず、対物レンズは、宮崎さんが幕張メッセで行われていた光学ショーで偶然出会った藤井光学さんに依頼することで解決しました。藤井光学さんは、今でもボーグの細かい要求にきめ細かく対応して生産していただいており、とても感謝しています。藤井光学さんは、当時から非常に優秀な光学スタッフがいることで知られており、有名カメラメーカーやレンズメーカーのレンズ設計や試作を数多く手がけていることから、非常に良いパートナーを得たという感じでボーグにとっては非常にラッキーでした。藤井光学さんも望遠鏡を手がけているということがビジネス的にもイメージ的にも有利なことがあるようで、うまく持ちつ持たれつの関係が築けていると思います。
残る問題は、鏡筒、接眼部、架台、三脚の部分でした。架台と三脚は、三脚メーカー大手のスリックさんに依頼することにより、何とかクリアーしましたが、最後まで苦労したのが、鏡筒の部分でした。プラスチック鏡筒なので、おもちゃ関係の業者さんに頼んだのですが、望遠鏡の生産など初めてなので、先方も戸惑ってしまい、せっかくかなりの型代を投資したにもかかわらず、最後は手作業で加工する部分が多く出てしまい、プラスチック部分の原価は非常に高いものについてしまいました。いずれにせよ、何とかボーグの発売にこぎつけることが出来たわけです。
1991年11月30日、いよいよボーグが発売されました。第一弾は、ボーグ65プラスチック鏡筒です。口径65ミリ、焦点距離450ミリ、F6.9、フォトビジュアルアクロマートというスペックの軽量・小型の望遠鏡で¥19,000でした。いわばファミスコの改良版のような仕様です。ボーグはファミスコの時の反省もあり、とにかく長く売り続けたいというコンセプトのもと、あえておもちゃルートは使わず、直販(オアシス・ダイレクト)と望遠鏡販売店だけに絞った流通方針を取りました。結果的には、この流通方針は2007年の現在まで変わらず保たれており、長く売り続けるという意味では成功だったと思いますが、数多く売るという点や利益を上げるという点では、あまりうまくいきませんでした。直販では、当時はインターネットがありませんでしたので、雑誌広告と新聞広告とDMを中心に展開しましたが、広告費の負担が大きく、よほど売らないと儲かりません。たまに売れすぎると、今度は検査や発送の人手が足りないという負のスパイラルに陥りました。
一方、専門店ルートも発売直後は私が作った広告やカタログのインパクトもあったせいか、そこそこ売れましたが、バブルの崩壊もあり、思うように高額商品(BORG76EDや100ED)が売れません。さらに追い討ちをかけるように、天文雑誌のテストレポートで評価の低いレポートが相次ぎ、3年目にはパタッと売れなくなってしまいました。「このままではボーグ事業はつぶれてしまう」という強い危機感が私を襲いました。このまま1度も黒字が出ないまま、ボーグがなくなってしまうのでは、何のためにトミーに入ったか分からないという思いから、宮崎さんにその不満をぶつけるようになりました。宮崎さんは、管理職というよりは典型的な職人だったのです。当時の私はそれを理解できず、何とかしてくれと連日攻め立てたのでした。見かねた宮崎さんの上司が、それなら中川に任せてみようと宮崎さんを一時的に他の部署に異動させてしまったのです。
そこから、私の本当の苦労が始まりました。今まで文句だけ言っていれば良かった立場から、今度はいきなり自分が全てを決める立場になったのです。これには参りました。こんなはずじゃなかった・・・といっても始まりません。自分が蒔いた種ですから、自分で刈り取るしかありません。「何とかボーグを継続させたい」。そんな強い思いから、ボーグの建て直しを図ることにしました。まずは鏡筒をプラから金属に変えること。金属鏡筒の登場がボーグを変えたのです。その後の展開は次回以降のお楽しみに。